| 第六話 景元五年。 郭太后の葬儀が2月に行われた。 そこでも曹奐は、まるで母を亡くしたかの如く哀しみを見せ、周囲の涙を誘う。 不愉快なのは、司馬昭だけだった。 何か、おかしいと思っていた。 郭太后の死の直後に、鍾会の反乱。鍾会は、郭太后の遺言をかたったと言う。 昨年末、そして初春と親しい人間を亡くしたことは、司馬昭にダメージを与えていた様子である。 それでも持ち前の強い意志、そして簒奪まであと一歩、と登り詰めた勢いが、彼を突き動かし、彼たらしめていた。 司馬昭は忙しさに追われていた。 司馬炎に皇帝へのご機嫌伺いは任せ、自分は殆ど皇帝のいる場所へと近づくことが無くなっていた。 既に、司馬炎を曹奐から遠ざけることは諦めていた。ただ、自分が皇帝にでもなった時には曹奐をとんでもない僻地にでも送るつもりはあるようだったが。 或いは・・一度迷った、後継・・・炎ではなく、弟の攸を、兄・司馬師の養子になっていることを理由に後継にしようかとも、本気で思い悩んでいた。だがしかし、一度賈充達の猛反対にあって、やはり司馬炎と決めたのだ。 どんなに情け無かろうが、我が子である。 そうやって悩んでいること自体が子供にとっても可哀想なことである事は、充分承知していた。 いっそのこと、「陛下を利用しているだけ」と言って欲しかった。 別に男を好きになろうが知ったことではない。それは単に本人の趣向の問題であり、既に男子を持っているのだから、問題はないのだった。 ただ、あそこまで思い詰めているとは。 「愚かものめ・・・・。」 思い詰めている息子に、曹奐の本性など言ったところで無駄に終わるだろう。かえって、自分と揉めるかもしれない。 「どうされましたか。」 賈充が尋ねる。司馬昭は自嘲的な笑い・・・めずらしく、困ったように笑い。 「安世にも困ったものだ、と思ってな。」 「・・・例の件ですか。」 司馬昭が頷く。 賈充はそっと部屋を出ていったが、司馬昭はまだ思い悩んでいた。 ・・・何故、あの底知れない不気味さに、気付かないのだ・・・・。 貴公子として大事に育て、学問から武芸まで一通り身につけさせた。 優秀で自慢の息子だった。 だからこそ。そうして皆に愛されてきたから、あの様な悪意に気付かないのだ。 司馬昭は言い得ぬ不安を覚える。 賈充には反対されているが、現在、呉の討伐を検討している。用意が調い次第、自分が出陣する予定だ。 ・・・安世は、連れてゆくぞ。 高貴郷公の治世のように、自分の不在時に皇帝を立てて叛旗を翻す者など、もういない。 そもそも、腹心の賈充をおいていくのだ。何があっても大丈夫だろう。 そこまで考えて、ようやく人心地ついた。 年のせいか、最近ふとしたことで疲れる。 軽い目眩がするが、目標はもう目前に迫っていた。 司馬昭は、立ち上がる。 「安世様、少しお話が。」 賈充が司馬炎に声をかけた。 鋭く厳しい目が司馬炎を眺めている。 鍾会と同様、司馬昭の寵臣である彼は、司馬炎にとっては苦手な人間であった。 しかも、鍾会は案外いろいろなことを笑って済ませたりしてくれたりもしたのだが、賈充は案外細かい性格で・・・また、厳しくもあった。 「何でしょうか。」 「・・・人目については困ります、こちらへ。」 そう言って、誰も来ない部屋へと連れて行かれた。 そして、座るように進めると自分も座り、間の机の上に、何かを置く。 「それをご覧になって下さい。」 「・・・・?」 厳しい目は、それがただごとでない事を示している。 その紙片を広げ、読むうちに・・・・。 「これは・・・・何ですか?!」 「見てのとおり、士季殿の最後の手紙です。漢中にいた私に届いたのは、奇跡ですね。」 そう言うと、その紙を卓上に広げるよう指示した。 司馬炎はざっと目を通す。それには、鍾会が反乱をするまでのいきさつ、自分の心情、後悔、そして半ば自殺するための遺書のような言葉も所々見受けられ。 その弱さはとても鍾会の書いた物とは思えなかったが、その流麗な筆遣いは、彼をおいて他ならない。 さらに目に付いたのが。 「・・・詔勅・・・誰が・・・?」 「誰かではないですよ。陛下が、士季に命令を下したのです。書いてあるでしょう。」 「これは詔勅であった」という文章を指で指す。 その手紙には、明らかにこれは反乱ではない、詔だ、という事が書いてある。 その証拠となる物は、既に成都で無くなっているであろうが。 手紙には、一応賈充には言うがそれは内密に、でも今後気をつけるように。司馬昭に先帝と同じようなことをくれぐれもさせないようにという無用の心配までしてある。 「・・・まさか・・・陛下が? どうやって士季殿に?」 「それは私にもわかりません。が、蜀へ行く前から決めていたら、話は別ですね。」 「そんなことは有り得ない・・・。」 そう、あの曹奐が、自分に何も言わず、そんなことをするとは思えない。 司馬炎が断言すると、賈充は厳しい目で睨む。 「のぼせ上がっている貴方にはわかりにくい話でしたね。」 「どういう・・・・・」 司馬炎がかっとして言うと、賈充は薄く笑って言った。 「この私が気付かないとでも? 貴方と陛下の関係を。少しはお父上やご自分の立場を考えて自重なさって欲しいものです。・・・それに、安世殿。陛下は、貴方の手に負える人間ではございません。それでも、と仰るなら、お好きにされるが良い。」 それだけ一方的に言うと、賈充はその書面をたたんで懐にしまった。 「・・・・?」 その大切そうな行動に不振な目を向ける司馬炎に。 「これが遺言になってしまいましたね。気の毒に。・・・あんなに子上様を愛しておられたのに、曹家などとかかわったから、こんな末路を迎えたのですよ。」 「貴方は士季殿とはもめたと聞いたけれど?」 ふと、司馬昭が口にしていた話を思い出す。 高貴郷公が死んだ直後、賈充を殺そうとしたという鍾会。幸いにもそれは未然に防がれたようだったが。 「・・・そうですね。でも、安世殿、世の中は通り一遍では解らないことの方が多いのですよ。貴方は知らない・・・でしょうね、あの事件の発端がどこから出たか。皆は、王沈と王業の陛下への裏切りがあの様な事になったと思っているようですし、士季殿もそれを随分責めたと聞きますけどね。」 「・・・違う・・・違うとでも?」 「それは今、貴方にお話はできません。」 そして遠くを見つめながら。 「話を士季殿に戻しましょう。彼は、私が子上様の為に必要な人間であるということだけは、理解してくれましたね。だからこそ、こんなものを寄越したのでしょう。これは、あきらかに子上様にとって、陛下が危険であるという事を示しているのですよ。」 そう言う彼は、どこか微かなうれしさのようなものををにじませていた。 その嬉々とした様子に、司馬炎は遠慮がちに聞く。 「貴方は・・・・士季殿のことが好きだった?」 司馬炎の問い掛けに、賈充は今度こそ鼻で笑った。 「下らないことを。・・・、まあ、貴方の語彙の中ではそうなんでしょうね。」 貴方程度の、と言う風にも聞こえるその言葉に、賈充は自分で満足したようだった。 それだけ言うと、あとは無言で部屋を出ていった。 残された司馬炎は呆然としながらその姿を見送る。 鍾会と賈充の奇妙な関係も疑問だったが、何よりも。 まさか。 曹奐が、手に負えない? 彼の何処が。 司馬炎には俄に信じがたいことであり、そして、故に深く考え込む。 手に負えないとはどういうことだ? ただ、父の腹心である彼。父のためなら何でもするであろう彼。 「・・・私を騙すのか・・・?」 司馬炎はそう呟くと、ふっと息を吐いて、姿勢を正した。 自分の考えは間違っていないと確信するかのように。 久々に司馬炎が実家に戻ると、父はやはり居ず、母が相変わらず明るい笑顔で迎えてくれた。 「安世、見て。」 母親が、綺麗な繻子の布地を見せてくれる。 「陛下が、いつも殿に世話になっているからって、わざわざ下さったの。」 そのきらきらした布地は綺麗な色で、事実、母親によく似合った。 「お似合いです、母上。」 「ええ。ほら、安世にも届いているわ。奥方にって。」 司馬炎がそれを受けとったのは初めてだったが、良く聞くと、母親はしょっちゅう何か貰っているとのことだった。 それは司馬昭が受けとって持ち帰るときも有れば、こうして使者が持ってくることもあったという。 司馬炎は、やはり、先程の件は賈充の考えすぎと思った。 現にこうして、しょっちゅう機嫌を伺っているわけではないか。 もし何か悪辣なことを考えているのならこんなことはしない・・・そう単純に、思った。 母親だって、知っているはずだ。今、陛下がどの様な処遇でおられるのか。 だからこそこうして何かを受けとるたびに、おそらくは父を、少しは諫めるのだろう。 それを期待して送っているわけではない。おそらく周囲の者達が、司馬昭には逆らわず、機嫌を取っておくようにといろいろ指示しているには違いない。晋王の大事な奥方の機嫌を取っておくことも、それなりに大切な事だ。 もっとも・・・母が父を多少諫めるとはいえ、それは賢い夫婦同士の儀礼的な会話で、現王朝を簒奪するという父の目的を知らない母ではない。 そう思うとこの無邪気な振る舞いは・・・そんなことを目の当たりにしたくないという、逃避的なものなのだろうか。 あるいは、もっと達観し、今を素直に楽しんでいるのだろうか。晋王の王妃という地位を。 「今度は、呉だって。」 曹奐が司馬炎の耳元で囁いた。 「貴方の父上は、全国統一をして、その功績が自分にあることで私に禅譲をせまるのだろうね・・・・。」 くす、と笑って言うその顔は、出合った頃よりずっと大人びているものの、相変わらず華やかな美しさを持っていた。 でも、心細そうな顔。自分の一歩先を、怖れる顔。 漆黒の濡れた瞳が自分を見つめる。 「安世は行っては駄目。」 そう言って、横に眠る司馬炎に、細い手足を絡ませた。 「ね、私と洛陽に居て。」 「ええ・・・。勿論です、陛下。」 細い肩を抱き寄せる。 甘い吐息が頬にかかり、続いて唇が触れる。 「約束だよ、安世。」 そう言って、曹奐は無理に司馬炎を引き留めた。 そんな中で、彼を腕に抱きながら、司馬炎は一つの決意をしていた。 知らずに、指が曹奐の喉元を撫で、ある一点に触れる。 そこは・・・かつて、激しい噛み痕が残っていた場所。 司馬炎がそれを見て・・・激しく父に怒り、そして嫉妬した、あの・・・。 「・・・陛下・・・・。」 そこに優しく、唇を這わせて・・・・。 思い出しながら。 賈充までつかって、自分たちを引き裂こうとした父に対する憎しみを再燃させるように。 でも、曹奐にはその鬱屈した思いは、気付かれないよう、優しく。 「いえ、私にはやることがあります。・・・今回は、父に随行致します。」 「・・・そう・・・。そうなんだ・・・・。」 悲しげな声。 だがしかし、暗闇でわからないその中で。 曹奐は淡く微笑した。 曹奐は出陣をする司馬昭には大袈裟なくらいの宴を催したり、戦に必要なものをそろえたりと、積極的に動いていた。 そして、出陣の際も、宮廷の外まで見送りに来たのだ。 流石に司馬昭は、下馬して曹奐に応える。 「・・・晋王、身体に気を付けて。良い知らせを待っているよ。」 曹奐が言うと、司馬昭もそれに儀礼的に答えていたが。 ふと、曹奐と目が真正面から合う。 「・・・ふふ・・・・。」 曹奐の微笑に、司馬昭の背筋に悪寒が走った。 近づいてきて、そして、耳元で囁きかける。 「あの世で、郭太后も士季も、待ってるよ・・・・。」 そして、ゆっくりと離れ・・・・。 司馬昭を、見えなくなるまで見送った。 ・・・これが、見納めだから。 にっこりと、曹奐は微笑む・・・・・。 まるで司馬炎の決意を感じているように。 司馬炎が、出発前に何を用意したかは知らない。 でも、あの暗い目は・・・。 かつて、一度だけ会ったことのある、曹髦と同じ。 誰かに対する殺意を、形にしようとしている者特有の、暗い目。 おそらくは、自分と同じ質のもの。 そしてしばらくしたある日。 曹奐が予想し、期待していた急報が飛び込んだ。 「晋王が遠征先にて死亡されました。」 |
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