羨慕 

司馬炎の皇后が亡くなったとき、誰もが次の皇后は胡貴賓と思った。
難点があるとすれば、娘しか生んでいないことだったが、逆に皇太子がいる以上、それも都合が良かった。
だが、胡貴賓だけは一人、浮かない顔をしていた。
美しく教養も有り、機転も利く胡貴賓は司馬炎の寵愛が最も深いと言われている。
もっとも・・・司馬炎自身が選んだ美女なのだから、それも当然と言えようが。
最初は、泣いて後宮にはいるのを嫌がったという。それくらいならいっそ死にたいとまで言ったとか言わないとか。
でも彼女は、今、こうして生きている。
なんでも率直に答え、はっきりとものを言う気の強さが、美しさ以上に司馬炎のお気に召したらしい。
武門に生まれた彼女は気取った態度は少なく、思ったことをはっきり口にするが、後宮内に敵は殆どいない。根回しをしたりするのではなく、正直でさっぱりした気質の彼女は、不思議と人に好かれる様だった。

だから、まさか皇后になるために、新たに後宮に誰かを迎えるなど、誰もが有り得ないと思っていたのだが・・・。

不思議なのは、むしろその後、胡貴賓が晴れ晴れとしていた事だけだった。
それについていらない憶測・・・負け惜しみ、などと噂をする者もいないわけでは無かったが、やがて新しい皇后・・・先妻の従姉妹である女・・・が正式に冊立されると、やがて人々は忘れていった。

───これで、いいのよ。

胡貴賓は自室で一人、ほっとした溜息をついた。
豪華だが趣味の良い衣装と調度品に囲まれている彼女は、そんな憂いている姿でさえもさまになる・・・周囲がそう言う、美貌。
そのなかで一人、安堵と、どこか寂しさの混じった溜息を浮かべていた。

皇后になりたくなかった・・・と言えば、嘘になる。
家のためにも、そして何よりここに来た自分のためにも、皇后になれればなりたかったが、 もともと、争うのは好きではない。
本気になればいいのかもしれないけれど、 いざこざに巻き込まれるのは嫌い。
遊びと思えばいいのかもしれないけれど、それによって運命を左右される人も出てくるのだから・・・そう、大人しくやりすごした。
そして何より、胡貴賓は知っていた。

───陛下が愛しているのは、私じゃないもの・・・・。

いつからだか、気付いていた。
自分ではなく、自分によく似た誰かを、自分になぞらえていると。
愛されていない訳じゃない、ただ身代わりにされているわけでもない。
それでも。

誰かはわからない、見えない敵がそこには存在する。

自分に似た姿で陛下を惑わし、そこまで執着させている誰か。
私を愛し、幸せにしようとすることで、まるでその「誰か」への思いを昇華させるように。
だから、もし私が皇后になれば、それは「成就」になってしまうかもしれない。

───させない・・・させたくない。

いつの間にそこまで司馬炎に惹かれていた自分が唯一願ったのがそれ。
まるで、自分ではない誰かが司馬炎と幸せになるような気がして。
自分の姿に嫉妬する、自分の心・・・。
こんな気持ち、誰にもわかるものですか・・・。


胡貴賓は、牀に横になる。
小柄な身体、そして、特徴的なのは大きな目。


女性にはとても優しい司馬炎だったが、胡貴賓はその中でも特別だった。
だからこそ、司馬炎のその優しさにつけ込んだり、甘えたりすることは一度たりともしたくなかった。
そんな、誰でも出来るような絆し方を、誰がするものかという妙なプライド。
気が強いからこそ持っている、自尊心。

皇后は死ぬときに、司馬炎に膝枕をさせ、約束させたという。
「次の皇后には従姉妹の・・・・。」
なんと醜い、なんて汚い人間なのか。
べつに、一族繁栄を願うのが悪くはない、自己顕示欲もいいだろう。勝手に楊一族でつるんでいればいい。でも、そのやり方が。
死ぬ間際の約束・・・優しい彼は、どんな事でも聞いただろう。
彼女の願いは一族の繁栄の為に・・・なんて、大嘘。
本当は、一番愛されている私に、皇后になって欲しくなかっただけ。
「・・・だめね、私って・・・・。」
声に出し、深く溜息をつく。
ああいう女は苦手だし、気持ち悪い・・・。
表だってぶつかったことなど一度もないが、好きでなかったことだけは確か。
でも、今回だけは感謝をした・・・彼女のおかげで、自分は皇后にならずにすんだのだから。
いまごろあの世で、大笑いをしているかもしれない。
・・・なんだ、あなたも愛されていた訳じゃないのね・・・・と、 全てを見通して。

今更、司馬炎が本当に誰を愛したか、なんて知らない。
知りたくもない。
でも、自分にのみ「陛下」ではなく「安世様」と字で呼ばせ、何でもしてくれる司馬炎・・・そうさせているのは誰?
そう思う自分もいる。

ここでは一番愛されていても、彼の心の中では一番ではない。
なら、このままでいい。
彼が飽きるまで寵愛をうけて、飽きたらそのまま捨ててくれれば、いい・・・・。
そう考えてしまう自分が寂しくなり、思わず涙ぐんでしまう。



かたん・・・・と、室の中で音がして、胡貴賓は自分がうとうとと眠っていたことに気がついた。
ゆっくりと目をあけると、心配そうに見ている司馬炎がいて、驚く。
「どうした?」
声をかけられても吃驚して何も返答できず、起きあがる。
なんで、ここにいるの?
今宵は訪ねてくると仰っていた?
だいたい、新しい皇后がいらしたばかりなのに・・・?
その様子に、司馬炎はほんの少し照れたように言った。
「使いも出さずに来て悪かった。・・・具合でも悪いのか?」
「いいえ、大丈夫。・・・安世様こそどうされました?」
「・・・芳の顔が見たくなった。」
薄く笑って言う姿に、胡貴賓も微笑み返した。
親以外に、唯一、───芳、と名を呼ぶ相手。
その低い声が、どこかまだ遠慮がちに声をかけてくることに、思わず微笑んでしまった。
眠っていたのを、具合でも悪くしたと勘違いしたのだろうか?
「嬉しいですわ。」
微笑んだが・・・何か、影があったのだろう、司馬炎は不思議そうな顔をして聞いた。
「・・・様子が変だな? 本当に、具合でも悪かったのではないか?」
「その様なことはありません、ちょっとうたた寝をしてしまって・・・・。」
あわてて身繕いをしながら答えると、司馬炎はその手を止めて、まっすぐに彼女を見て言った。
「・・・皇后に、なりたかったか?」
はっきりと尋ねてきた司馬炎。こういうところがこの人はどうだろうと少しだけ思う。だが、驚いた。
胡貴賓は目を見開いて・・・でもその後、微笑を浮かべて首を横に振った。
「それはありません。・・・全くなりたくない、といえば嘘ですが、人と争ってまでは、とても。わたくしには、向きません。」
そう、これだけ寵愛が深いのだ。
ちょっとお願いすればなれたかもしれないのに、一切、そういったことはしなかった彼女を、司馬炎は内心訝しく思ってはいた。
気が強いだけにプライドが邪魔したのかとも思ったが、はっきりと否定された言葉に、嘘はない。
「そうか・・・。芳が言うなら、そうであろうな・・・。」
声が少し、落ちる。
ほんの少し、寂しい顔をする司馬炎。
強請って欲しかった、とでも言うように。
「・・・安世様、そんな顔なさらないで下さい。」
胡貴賓はそう言って、司馬炎の手を握りかえした。
「お側においていただけるだけで、芳は嬉しいのですから。」



司馬炎は、その手をぎゅっと握りながら、懐かしい日々を思い出す。
ほっそりした体つき。
見上げる大きな目。
愛らしい口元・・・。
よく似た人間を、後宮の官人募集にかこつけて捜した甲斐があったというものだ。
何も強請らない、ただ傍にいてくれる。
守ってあげたいと思わせるような風情で、実は案外、強い。
そんなところまでよく似ていて。
例え彼女を手に入れたところで報われる思いではないが、それでも、彼女を求めた。
だからこそ、皇后を顧みなかったわけではないが、結果的には辛い目にあわせた。死ぬ間際までおそらく彼女を憎んでいた事だろう、あんな、死の床でお願いしたのが息子の行く末では無く、次の皇后とは。 ・・・それは結果的に息子の行く末に関わることではあるのだが、哀れなことをさせたと思う。
死に際の膝枕で、次の皇后を指名とは・・・本当に、辛かったのだろう。
それでも自分は、次の皇后が来ようが、まだ満たされない思いに捕らわれて。
これだけ・・・権力も地位も手に入れたのに、たった一つ、手に入れられなかった・・・哀しい過去。
今だ、胸が疼く。
決して、忘れられない。

・・・当の本人は、今頃、自分のこのていたらくに気付いて、笑っているかもしれないが・・・。

そこまで考える司馬炎でも、今目の前にいる女性がそれに気がついているなんて事は、まるで考えていない。
考えが、至らない。
一人を幸せにできなかったこと、自分が思いを遂げられなかったことが、更に多くを不幸にしていることが、わかっていない。



「安世様?・・・どうされました?・・・何かお悩みでも?」
胡貴賓の声に、はっとする。
「・・・大したことではない。・・・芳・・・。」
呟きながら、胡貴賓を抱きしめた。

・・・やっぱり、他の人の事を考えていたのね・・・。

寂しく、そして悔しい。・・・でもそれ以上に思うのは。
ささやきかけてくる甘い言葉も、優しい愛撫も、すべて、その人のもの・・・。
誰を思い、誰を愛したのだろうか?
聞きたいとは思わないし、今更妬ましくも悔しくもない。
いまここでは、自分は一番愛されている。
今、この腕で抱かれているのは、自分・・・。
だけれども。
司馬炎の腕の中で、彼女はひっそりと思うのは、司馬炎に愛された誰かの事。
そして。
その人が、限りなく羨ましい、という事だけだった。



おわり
 


似てる誰か、が解らない人は長編を見てください。 ちなみに芳は、胡貴賓の名前です。綺麗な名前ですね、なんだか名前と風情が一致しているような感じがして、実は結構好きだったりする。司馬炎を好きになった人はある意味、不幸です・・・という話。羨慕 とは羨むことだそうです。言葉のままでしたね。
2003年?のリメイク。書いた年月日不明・・・わかればそのうちにプラスしておきます。


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