「文偉、まだ起きてたのか?」
呆れたような声に竹簡の山から顔を上げれば、扉にもたれ掛かるようにして立つ彼がいた。その姿にふわりと微笑み、費イは言葉を綴る。
「伯約。どうしました、こんな時間に…?」
窓から差す月明かりは、大分少なくなっている。深夜というにはまだ早いが、疲れ切っているはずの彼が起きているには少々遅い時刻。
「…その言葉、そっくりお返しするぞ?」
ふぅ、と一つ溜息をもらすと、姜維はゆっくりと費イに歩み寄った。そして背後から優しく抱擁すると、そのわずかに乱れた髪を指にすくい上げる。
「もうしばらくかかるのか?」
「いえ、あと一つで終わります」
髪に唇を寄せて遊ぶ姜維にクスクスと笑い、そっとその頭を抱き寄せた。そのまま幼い口づけを軽く繰り返し、するりと姜維から離れる。
「もう少し、まっててくれますか?たまには…一緒に呑みましょう?」
「…そうだな。最近忙しそうでつきあっていなかったし」
わずかに考えてから姜維はうなずき、扉に向かいかける。だが途中で何を思ったのか引き返してくると、費イの正面に立った。
「伯約?」
どうしましたと柔らかな口調で問いかければ、姜維の視線が揺らぐ。何か言いかけては口を閉ざし、幾度も繰り返し。ようやく、言葉を紡ぐ。
「俺は…文偉に負担をかけているのか?」
不安な瞳で北伐のことを含めて言う姜維。それに気づかない費イではなく、姜維の言葉に驚いたように目が見開かれた。
「突然どうしたんですか?」
「俺が北伐を繰り返したいなんていわなければ。少しは、文偉の仕事は減るのかなって…」
「伯約…。…大丈夫です、貴方が北伐に行きたいと言おうと言うまいと、私の仕事量はまったく変わりませんから」
クスクスと笑い、どこか楽しそうに言う費イ。それに顔をしかめ、姜維は咎めるような怒ったような、複雑な顔で費イを見つめる。
「どこが良いんだ。他の文官どもはみんな文偉に押しつけてるんじゃないだろうな」
「そんなことはないと、一番知っているのは貴方でしょう、伯約」
「………」
確かに、武官である自分にまで仕事が回ってくるのだ。文官だけの手に負えないからというのはよくわかっている。
けれど、それでも。
「…あまり、無理をするな」
「ええ、大丈夫ですよ。…有難う」
ふわりと笑むと、費イは軽く瞼を閉ざす。そしてぽつりと、小さくつぶやいた。
「私が北伐を反対する理由を、貴方は知っていますか?」
「………?内政面を充実させるためただろう?」
「ええ…そう、ですね」
くすりと面白がるように笑い、けれどきちんと言葉にはせずに。
「もうすぐ終わりますから。先に戻っていてください」
「あ、ああ…」
腑に落ちないまま、それでもうなずいて。今度こそ、姜維は扉の奥に消える。それを最後まで見送り、費イは小さく苦笑した。
「内政面を充実させる、と言うのもありますけれど。本当は……とても自分勝手な我が儘なんですよ…」
ぼんやりとした薄闇に言葉は消えて。何かを振り払うように頭を振ると、費イは本日最後の仕事に取りかかった。
廊下を歩く音が微かに聞こえる。それと供に、小さな声が響いた。
「文偉、開いてる」
そう一言告げれば、ためらいなく扉が開いた。そのままするりと費イは滑り込み、卓の上に持参した酒を置く。
「遅くなりました。思ったより…時間がかかって…」
「気にするな。どうせ明日は休みだろう?」
「私はそうですけど…伯約は違うでしょう?」
すまなそうに費イがいえば、姜維が微かに喉の奥で笑った。そして立ち上がり、費イを腕に閉じこめる。
「大丈夫だ。一日二日寝なくても、そうそう倒れはしない。それに…せっかく文偉とゆっくりできる夜だしな」
ちゅっと首筋に接吻し、真っ赤になった費イを解放して。費イに怒鳴られる前にと猫のようにそばを離れた。
「ほら、そんなとこに突っ立ってないで」
まだ微かに笑いを含んだまま席を勧め、盃になみなみと酒を注ぐ。まるで誤魔化されたようだと不服に思いながらも、費イは素直に盃を取った。
「有難う御座います」
微かに笑んで礼を言うと、久方ぶりに飲む酒に舌鼓を打つ。いつかゆっくり姜維と呑もうと思っていた酒は、思っていたよりもずっと上等なもので。
「美味いな」
感心したように漏らされた言葉に、思わず微笑んだ。
「一緒に呑もうと思って、とっておいたんですよ」
「それは有り難い」
久しぶりの旨い酒に姜維も笑みを漏らし、しばし二人無言で盃を空にする。けれど重たい沈黙ではなく、穏やかで優しい沈黙。
このまま言葉がなくとも息苦しくない時間が過ぎるかに思われたが、不意に姜維が口を開いた。
「さっき、北伐に反対する理由は違うっていってたけど…一体何が理由なんだ?」
「え?ああ…そのことですか」
じっと自分を見つめる姜維に苦笑し、費イは酒で唇をしめらせる。そして微かに自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「伯約がいったことも間違いではないですよ。内政を充実させるのも大切ですし、人がいないのも事実。けれど…それよりも。私が………貴方を、行かせたくない…」
言葉を句切り、席を立って。そっと姜維の隣に立つと、どこか泣きそうな眸で見つめた。
「貴方を行かせたら…そのまま、帰ってこないような気がする。貴方は武将だから、行かなくてはいけないのに…それでも」
行かせたくない…。
離したく、離れたくない…。
「文偉…」
姜維の手が、そっと費イの肩に伸びる。そのまま優しく抱き寄せて、安心させるように唇を落とした。
「大丈夫だ。お前より先に逝ったりはしないから。文偉を独りになんてしない。約束するから」
「伯約…。怒らないんですか?」
「何を?」
愛しい恋人から漏れた言葉に、姜維は眼を瞬かせる。何故怒らなければならないのか見当が付かず、首を傾げて深い瞳をのぞき込んだ。
「だって…私の、自分勝手な都合で貴方に北伐を許可しない。兵を出さない。正当な理由ではないのに…。怒られて、なじられて当然なのに…」
何故、と心底不思議そうに費イが問えば、姜維はそんなことかと笑う。一度その唇を優しく塞ぐと、耳元に唇を寄せ、心地よい声でささやいた。
「文偉が俺を心配してくれているのがわかるのに、何故怒らなきゃならないんだ?確かに…兵を出してくれないことは困るけれど、それよりも文偉の気持ちの方が嬉しいよ」
「伯約…」
姜維の心遣いが嬉しくて、費イは瞼を閉じる。そして姜維に身を委ねると、微かな声で謝罪して。
「…ごめんなさい、伯約。怒られても…私は貴方を行かせたくない…。好きだから…伯約が、好きだから…」
「大丈夫」
そっと幼子をあやすように背を撫で、いくつも接吻を落とす姜維。ふわりと、費イの身体を抱きしめた。
「どんなに自分勝手な我が儘でも、文偉のことなら全部許せるよ。…愛してる」
「……はい」
愛情と同じだけある我が儘。
他人から見れば呆れられるか怒鳴られるかするような、利己的な考え方でも。
譲れない――
伯文同盟結成、おめでとう御座います!姜維受けの人間なのに、思い切り楽しく書かせていただきました(苦笑)あまり…と言うか、思いっきり格好良くない姜維君と乙女過ぎる文偉様ですが(汗)よろしければお納め下さいませ(御辞儀)返品・苦情ともに受け付けますので…(苦笑)
綾月様、素敵な御祝い有り難うございます。掲載遅くなってすみません。
こちらこそ、無理にお願いしてしまってすみませんです。