ぼんやりとした脳裏に声が響いて来る。
「文偉」
彼の低い美声が優しく自分の字を紡ぐのが嬉しくて、知らずに顔が笑みを作る。
「文偉・・・愛しているよ」
耳元で囁かれる声が、言葉が嬉しい。
「伯約」
応える様に微笑んで彼の字を呼ぶと、ゆっくりと彼の唇が降りて来る。
「私も・・・愛してますよ、伯約」
そう告げると、彼の顔も優しく笑みを作った。
寝台の上でうつ伏せになり、目を瞑る費禕の髪を姜維がそっと梳く。
己が解いた髪を指に絡めては解き、頭を撫でては再び髪を絡め取る。
「伯約」
「ん?」
「楽しいですか?」
己の頭に手をやりながら、費禕が寝返りを打って姜維を見た。
「嫌なら止める」
そう言って費禕の頭から手を離すと、姜維は寝具をかけ直す。
「別に・・・嫌な訳じゃ・・・」
「そうか?」
費禕の返事に気を良くした様に、姜維は再び費禕の頭へと手をやった。
費禕はじっと姜維を見る。
「どうした?」
費禕の視線を受けて、姜維が、それでも手を止めずに聞く。
「いえ」
呟きを返して費禕はそのままじっと姜維を見る。
「文偉?」
姜維が不思議そうに費禕を見ると、費禕はにっこりと微笑んだ。
「文偉」
費禕の笑顔を見て、姜維が再び呼ぶと、費禕はふふっと笑って手を伸ばした。
「伯約」
姜維の首に己の手を絡めて引き寄せると、耳元に囁く。
「伯約、愛してます」
「愛してるよ、文偉」
姜維が体勢を変える。
費禕の隣に横たえていた身を起こし、覆い被さり・・・。
費禕は情事の最中、己の名を呼ばれるのを好む。
いつ気付いたのかはもう覚えていないが、なるだけ互いを呼び合う様になっていた。
「文偉」
そう囁いた時に費禕が作る優しい、どこか嬉しげな、それでいてほっとした様な笑顔が好きだから。
費禕が呼ぶ己の名も、随分と嬉しく感じるのだが。
未だ乱れる微かな吐息を聞きながら、姜維は費禕に口付ける。
「文偉」
そう囁きながら。
「んん・・・」
とろんとした瞳が姜維を見つめる。
費禕の眉間に口付けて、姜維が慎重に、何でも無い事の様に聞いてみる。
「文偉・・・名を呼ばれるのが・・・好きか?」
情事の最中にという言葉は入れない。
それでも聞きたい事の意味は解るだろう。
費禕の意識がはっきりとしている間に聞いても、恐らく答えようとはしない。
そんな気がするからこそ、今、聞いてみる。
自分だって費禕に呼ばれると嬉しい。
しかし費禕が見せる安堵した様な表情が、姜維には気に掛かっていた。
ぼんやりとした視線を姜維に向け、費禕が微笑む。
ぎゅっと姜維の衣に縋り付く様に己の手を掛けて、瞳を潤ませた。
「文偉?」
再び呼ぶと、費禕が頭を姜維の胸へと寄せた。
「呼ばれると・・・安心する・・・」
ぼそりと呟かれた言葉。姜維が目を丸くするが、顔を伏せている費禕には見えない。
「安心する?」
姜維が聞き返すと、費禕は顔を伏せたまま、こくんと頷いた。
「いつもは・・・安心できない・・・か?」
そっと聞くと、費禕はゆっくりと姜維へと顔を向けた。
潤んだ瞳が、寂しげに見つめる。
「私は・・・そんなに、自信が無い・・・から・・・」
姜維が目を丸くしたまま、費禕をじっと見つめ、言葉を待つ。
費禕は視線を反らして、再び頭を姜維の胸へと預けた。
「呼ばれると・・・・私の事なんだと・・・安心・・・する・・・・」
泣きそうな声が姜維の耳に届いて、姜維は費禕を強く抱き寄せた。
「文偉、愛しているよ」
耳元に囁くと、費禕の身体が微かに震えた。
「愛しているよ、文偉」
再び囁く。
「誰よりも、文偉を愛しているよ」
微かに震える費禕が、声を殺して泣いているのが姜維には解った。
それでも、ただ抱き締め、囁き続ける。
「文偉」
己にしがみつく手も、微かに震える身体も、声を堪えている事すらも、姜維には愛おしくてたまらない。
「文偉、愛しているよ」
ただ静かに、費禕が眠るまで、姜維はずっと囁き続けた。
眠りに付いた相手を腕の中に捉えたまま、じっと見つめる。
頬に残る涙の軌跡をそっと拭い、再び強く抱き締めた。
「不安にさせてた何て気付かなかった・・・すまない」
聞こえるはずは無い。それでも姜維は囁く。
「俺が愛しているのはお前だよ、文偉」
完全に眠りに入っているのだ。聞こえているはずは無い。
それでも微かに費禕が微笑んだ様に見えて、姜維は再び囁く。
「愛しているよ、文偉」
何が原因で費禕を不安にさせていたのかなど解らない。
それでも愛しいが故に不安を感じる事は理解出来る。
自分だって、費禕が自分の名を呼ばなくなれば、不安になるだろうから。
費禕が自分以外の誰かと談笑している時すら、嫉妬する事もあるのだから。
「文偉、愛しているよ」
安堵すると言うのなら、何度でも告げよう。不安になど、させたくないから。
自分の想いを彼の心まで、しっかりと届けたいから。
「文偉」
まるで何かに捧げる様に、丁寧に、厳かに・・・。
「俺が愛しているのはお前だけだよ、文偉」
眠る人に、誓う様に。
目が覚めると、目の前に姜維の顔。じっと見つめて、己の目が痒い事に気付き、目を擦る。
そして思い出す。昨夜、自分が言った言葉を。
不安なのは本当。名を呼ばれるだけで安心するのも本当。
だけどそれを告げる気は無かった。告げてしまうと、束縛する様で。
重荷になどなりたくは無い。自分の想いが彼の感情に枷を付ける事など望まない。
本当は彼の全てを独占したいけれど・・・重いと感じられる事は、疎まれる事だけは嫌だった。
ぼんやりと姜維の寝顔を見ていると、また涙が出てきそうで、費禕は再び目を擦った。
「文偉、おはよう」
いつの間にやら目を覚ました姜維が、費禕を見つめて告げた。
「おはよう・・・」
昨夜言ってしまった言葉が姜維の重荷になっていないか不安で、費禕の声が掠れた。
それをどう取ったのか、姜維は費禕の額にそっと唇を押し当て、囁く。
「文偉、愛しているよ」
そして、照れ臭そうに微笑む。
「伯約・・・」
重荷と感じられた訳でも無く、自分の不安や嫉妬心をからかわれるでも無く、ただ受け止められて、
費禕が堪えていたはずの涙が意志を無視して零れ出す。
「文偉を愛しているよ」
涙を唇で追いながら、姜維が囁き続ける。
費禕の口から小さな嗚咽が零れる頃、室には朝焼けが差し込み始めていた。
了